平成最後の年賀状、やっと書きおえました。紅白見ながら書かずにすんで、ホッとしています。
米津玄師の歌が楽しみで、集中して見たいから。スペースシャワーTVでは、PV浴びるほど見てますが、ライブは貴重ですね。
終わるとなると平成も、いい元号に思えてきました。新元号もこのぶんでは、すぐ発表に思えそうです。
終活年賀状に思うこと
最近終活年賀状というコトバを知りました。ワイドショーの年賀状コーナーで、てづくりアイデアといっしょに紹介されていて。
夏には今年の年賀状なんの絵柄にしようかな、なんて思っていられた時をすぎ。はやばやと人間関係を断捨離してしまった私としては、うらやましいような。
「待てまて早まるな」と言いたいような。自分から宣言しなくても、時がくれば強制的に終活モードになるんですから。
恩師への年賀状
なぜかといえば、小学1年生から中学3年までの恩師に年賀状出していたのですが、とうとう数年前に全部来なくなりました。
(高1から3年間は、生徒より家庭の先生で除外。進路指導を全くせず浪人続出。同窓会に絶対よばれない教師人生とは?)
世に職業かずあれど、教師ほど年賀状ちゃんと返信する職業はないはず。いつかはそういう日もくると思っていましたが。
そして、どの先生にもお子さんがいたので、その旨をつたえるハガキが来るんじゃないかと思ってました。
とはいえ1枚も来なかったのは、親は親、子は子だということ。センチメンタルすぎましたね。
初めての終活年賀状
ぼくの先生はフィバー
数年前まだ終活年賀状というコトバもない頃にとどいた、忘れられない年賀状の話です。
先生は中学の担任でした。女性ながら熱血教師で「口もだすが、やる時きゃやるよ!」というタイプ。
受験の時「がんばれ!」と手がきした鉛筆をもって、ひとりひとりに激励にきてくれました。テストであがっても、文字から先生の声で平常心取りもどせるように。
「がんばってる子はひいきする」と言いながら、美少年優先だったり。そこも人間くさくて正直な先生。
「右足か左足かどちらから歩くかわからなくなる、そんな時もある」なんて、生徒のために悩んでいた先生。
頭の固い父にも、私を進学させるようにと熱弁をふるってくれたこともありました。
いらだちもかくさなかったけれど、生徒のことを本当に考えてくれた先生。
終活年賀状の理由
そんな先生がくれた年賀状には「息子に先立たれて正月を祝う気持ちがなくなりましたので、今後の年賀状はご遠慮くださいますようお願いします」
正直なお気持ちでしょう。それでも1月1日にいただくには、荒巻鮭でガツンくらいの衝撃でした。
当時私も介護でいっぱいいっぱい。先生に甘えたひとこと書いたおぼえがあります。
それでも、おつきあいの終わりがこれではさびしい、と思ってはいけませんか。
やってもらったこと、心に残っているコトバ、すべてを上書き保存してしまったような気もち。
お正月が来るたびに
何年も前なのに、今も思うと心が痛みます。当然と受けとめられずにいます。
いい先生だったから、きっとお子さんにも自慢のタネだったでしょう。泣きの入っていた私とのつきあいだけ切ったと思いたいです。
感情的な先生だったから、私の暗い年賀状みて「つきあっていられない」と書いて。他の人とは、いまも年賀状交換していてほしい。
印刷されていたから、その1枚だけのはずないのに。
伝えなければ、伝わらない。というものの、紋切型文例集のやさしさを知りました。
高浜虚子
去年今年貫く棒の如きもの(こぞことしつらぬくぼうのごときもの)
「去年今年」が新年の季語だと知らず、こぞことしの音の重なりが耳にのこっていました。
この句を思いうかべると、除夜の鐘ついてる気分になります。
大みそかの夜の寒さと白い息。ふだんふれることのない鐘をつくのに出かけ、見知らぬ人たちと待つ非日常感。
鐘の音色もすみきった空気のなかで聞くせいか、煩悩がとけていく気がします。数少ない仏教徒であることを実感する瞬間。
(小さい頃、お釈迦さまに甘茶かけたのは、おぼえてますが)
明治大正昭和で、大正がロマンになったように。昭和や平成がノスタルジーの対象になる時、どんな時代といわれるでしょうか。